〜「戦艦大和」から何を考えたか?〜  2005.6.25
以前便風に寄稿くださった映画通の岸さんが第二弾を送って下さいました。
今我々が次世代に何を伝えるか考えさせられる内容です。
皆様の御感想を までお寄せ下さい。

淳子記



「戦艦大和」から何を考えたか?       岸 修民

呉市に完成した呉市海事歴史科学館「大和ミュージアム」が大人気であります。
「大和ミュージアム」には全長263mの巨艦を彷彿とさせる10分の1の巨大模型が置かれ様々の技術的評価が展示されています。同時に零戦と人間魚雷/回天の実物展示には多少胸苦しさを覚えますが。

さてこの世界に誇りうる造船技術や航空機技術は戦後復興を大きく支えていったのは事実でありました。巨大タンカーを作り造船大国とし製鋼技術や鋳造技術が受け継がれ、弱電技術は家電商品の基盤となり、生産管理システムは自動車産業に大きく貢献することとなります。日本の技術は敗戦国を自ら救った大きな力だったのだと痛感します。

さて大和が昭和20年4月7日、米軍の沖縄上陸を受けて沖縄への特攻に向かい乗員約2,500名とともに九州坊の岬遥か沖で沈没した歴史的事実は戦争を背景とした重苦しい事件であります。事件が博物館に展示される事に多少の違和感を持っていた私でありましたが、案内してくれた呉在住のSさんの父君はまさに大和と共に海底に眠る兵士の一人として戦没者リストに名を連ねておられることを知り たちまちにSさん家族の戦後60年が思いやられ、遺書の数々や語られる事実から浮かび上がる物語の多くに惹きつけられずにはおれないのです。乗員のすべてに家族があり、語るべき物語があることだろう。米軍が沖縄に上陸しつつあった状況で呉を発進した大和。乗組員の多くは同胞を救いたい思いと共にひそかに死地に赴く大和の運命を予感するものがあったに違いない。現代に生きる私たちが立ちすくむ言葉を見つけたのでここに引用しておきます。

臼淵磐大尉の遺書「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外にどうして日本は救われるか今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る、まさに本望じゃないか。」

やがて大和は轟沈し、四か月後、広島・長崎のすさまじい犠牲の上でやっと終戦を迎えたのです。戦後のつらい時代を超えるといつの間にかとんでもない大金持ちになっていたのです。これが冒頭にお話した技術のお陰だったというわけです。さてその後はバブル期を迎え、淘汰競争の中で企業は抱え込んだお金を手放す事に嫌悪感を持つのです。かつての零戦を作った三菱は自社の乗用車やトラックの欠陥をひたすら隠して使用者を死に追いやったり、あるいは三井はデータの改ざんで技術の完成を偽ったり。あるいは女子学生が駅前やコンビニ周辺で地べた座りをしたり、これまた若いお嬢さんが電車の中で一心不乱にお化粧することも含めてこれはもう日本の末路。少なくとも臼淵大尉がイメージした新生日本ではなかったでありましょう。

さて映画の話です。先程亡くなった岡本喜八監督の「肉弾」という映画があります。戦争末期、敗戦濃厚の千葉県九十九里浜に蛸壷を掘って竹槍で米軍の上陸を待ち受ける学徒兵のあいつ(寺田農)。どう考えても死地に赴く意義が見つからぬ。やがて知り合った少女(可憐・大谷直子)の為に戦うのだと心穏やかに今度は魚雷を結びつけたドラム缶に乗り込んで出撃して行く。敵の影もなく、やがて時は過ぎ去り二十年。さんざめく海水浴場、繁栄と自由を謳歌する若者たちの中にドラム缶が漂よい流れてきます。あいつはしゃれこうべになってまで戦っていたのです。黒い眼窩の奥のあいつの怒りと悲しみが思い出されます。
大和が沈んで60年を迎えた節目の年。私もいつの間にか同じ節目の年を迎えていました。




便風とは
「びんぷう」と読みます。
意味は、「(1)追い風。順風。(2)便り。手紙。音信」を表します。
大辞林(国語辞典)